Collection-Piollet

アーティスト

ピオレ・コレクションに含まれるデザイン画を手がけたのは、いずれも生粋のアーティストで、グラフィック・アートの学校で教鞭を取ったり、ヨーロッパレベルで開催される大規模なサロンでも作品が展示されたりした顔ぶればかりです。彼らの才能のすばらしさ、コレクションに含まれる絵の多様性や完成度の高さの所以はそこにあります。エルテやドゥメルグの仕事だけでもすでに膨大ですが、このコレクションの規模はさらに大きく、アーティスト単位に限られるようなものではありません。したがって、ここに含まれる画家たちすべての情報を把握するのは不可能です。
ピオレ・コレクションはもともと、衣裳デザイナーのマックス・ヴェルディのアトリエで管理されていました。フォリー・ベルジェールの横、ソルニエ街18番地に、1918年にアトリエをつくったヴェルディには、ヨーロッパの有能な下絵画家への確実な審美眼がありました。
彼は、メゾン・パスコー広場の舞台小屋群で最も優れた衣裳デザイナーになり、1919年から1937年の間、フォリー・ベルジェールを中心に活躍しました。同時に、ボンベイ、カルカッタ、上海、香港、オスロ、ロンドン、マドリード、ブエノスアイレス、アメリカなど、世界をまたにかけて活躍しました。1年で実に150万点もの衣裳をデザインしたと言われています。彼は、同じデザイン画から衣裳を複製できるよう、デザイナーの著作権の問題にも取り組みました。他の画家たちも彼のこの考えに賛同しました。衣裳デザインが世界中に流通するに至った当時、彼らもまた作品の権利問題をめぐる当事者となっていたためです。戦争が近づくと、ユダヤ系とされるヴェルディはフロリダへ旅立ち、1939年、新たにアトリエを立ち上げました。アメリカでは特に大サーカスの仕事を手がけています。1970年に引退した数年後に、この世を去りました。

ピオレ・コレクションに含まれるなかで最も有名なのがエルテ(またの名をロマン・ドゥ・ティルトフ)です。ピオレ家のもとに身を寄せたのち、エルテは1916年から1919年までラシミで、次いでマックス・ヴェルディのもとで活躍、そのおかげで、1919年から1935年までフォリー・ベルジェールで衣裳・装置デザインを手がけただけでなく、ブロードウェイの創始にも深く関与しました。パリにおいてもニューヨークにおいても、エルテの仕事にみられるヴェルディからの影響は決定的です。 スラブ系らしい才能にあふれ、16世紀のペルシャとインドの細密画のからも強い影響を受けたエルテは、演劇の衣裳デザインの領域でも、アール・デコという様式の成立に関しても、きわめて重要な役割を果たしました。エルテが描いたデザイン画の数は25000点にも及びます。長期間にわたり世界的な名声を博し続けたエルテは、1990年に98歳でこの世を去りました。




Erté エドゥアール・アルーズ
ジャン・オーモン ジョゼフ・クーン=レニエ
ジョルジュ・バルビエ ジャン・ル・セイユー
シャルル・ベトゥー アルベルト・ロレンジ
ウンベルト・ブリュネルスキ マルコ・モンテドーロ
ジェニー・カレ ルネ・ランソン
ルイ・キュルティ ポール・ゼルテンハンマー
L.ダニー・バリー ヨープ・ジェーズィンク
ラディスラス・シェテル アルク・シャンクス
エンドレ ドリー・トゥリー
ボルジュ・フィッシャー ユーグ・ウィルグビー
シャルル・ジェスマール フレディ・ウィトップ
マーシャ・プロシャスカ レヴォルグ
エルンスト・スターン オルガ・ウィヴデンコ
フェリックス・ド・グレイ ジョゼ・ド・ザモラ
ミシェル・ギャルマティ ジグ
アレクサンドル・ジノヴィエヴ Others


Erté Erté, Through his Slavic genius, and inspired by sixteenth-century Persian and Indian miniature paintings, Erté had a seminal influence not only on the style of theatrical costumes, but also on the Art Déco style. He is estimated to have produced around 25,000 sketches. Erté died in 1990 at the age of 98, after a long and prestigious international career. Up
Jean Aumond ジャン・オーモン(フランス 活動期間:1919-1965) パリのミュージック・ホールでもっとも有能かつ精力的な舞台装置家のひとり。カジノ・ド・パリ、コンセール・マイヨル、バタクラン、アンバサダー、マリニー、フォリー・ベルジェール、パラスと、パリのすべての大劇場の装置を手掛けた。 Up
George Barbier ジョルジュ・バルビエ (フランス1882-1932) バレエ・リュスから強い影響を受けて、バルビエがディアギレフのダンサーすなわちニジンスキーとカルサヴィナの挿絵の入った本を出したのが1913年。エルテと並んで、アール・デコの創始者とみなされるイラストレーション作家のひとりである。ウォルス、ランヴァン、ポワレなどの著名な服飾デザイナーとも協働。さらに、映画や演劇などの衣裳デザインも広く手掛けた。Up
Charles Bétout シャルル・ベトゥー (フランス1869-1945). 1919年から1939年まで、コメディー・フランセーズの衣裳デザインを任された。また、オペラや歴史映画の衣裳も多数手がけ、とりわけ17、18世紀の時代物の衣裳で高い評価を受けている。1925年から1931年までのフォリー・ベルジェールなど、ミュージック・ホールでの仕事も少なくない。Up
Umberto Brunelleschi ウンベルト・ブリュネルスキウンベルト・ブリュネルスキ(イタリア1879-1949) 画家志望だったが、本や雑誌の挿絵を手がけるようになる。1914年から1922年までにバタクランで働いたのち、1923年から1936年まで、フォリー・ベルジェールとミラノのスカラ座でも働く。戦後はスタイルに精彩を欠くようになり、エロチックな出版物の挿絵を多く描いた。Up
Raymond Fost
Maquette de Fost
ジェニー・カレ (1902-1945) 劇場支配人を父に、歌手を母に持ち、幼少時からショービジネスの世界に浸かったジェニー・カレは、1919年から1928年まで、ゲテ・リリックをはじめとして、コンセール・マイヨル、パラス、カジノ・ド・パリでデザインを手掛けた。パートナーのレイモン・フォストとともに、30年代で最も高い評価を得た人物のひとり。ニューヨークのジークフリード・フォリー、ロンドンのパラディウム、あるいはいくつかの映画撮影スタジオでも仕事をしている。彼女の描いた下絵の数は32000点に及ぶとも言われている。 Up
Louis Curti ルイ・キュルティ(フランス 活動期間:1926 ‐ 1949) パラス、カジノ・ド・パリ、フォリー・ベルジェール、シャトレなど、有名ミュージック・ホールのほとんどを仕事場とした。イギリスに戻ってからは、ロンドンの劇場で舞台衣裳を多数手がけた。Up
Ladislas Czettel ラディスラス・シェテル (ハンガリー1904-1949) バクストに師事しポワレと協働したデザイナーで、ヨーロッパの劇場で活躍。フォリー・ベルジェールとパラスの衣裳も手がける。モデルの身体に直接布をかけ、ものの数分で衣裳を作り上げてしまうという特技を持っていた。第二次世界大戦勃発後、アメリカに移住し、MGM、メトロポリタン・オペラ、ブロードウェイ、バーナム・サーカスで活躍した。Up
L. Dany Barry L.ダニー・バリー(フランス19.. ?-1937) 1930年から1934年まで、フォリー・ベルジェールとコンセール・マイヨルの衣裳を手がける。1937年、兵役期間中に急死。衣裳デザイン画にそえるサインはファースト・ネームで「ダニー」だった。Up
Joop Geesink ヨープ・ジェーズィンク (オランダ 1913-1980)Up
Endré エンドレ (イタリア 1905-1993) 母親はロシア人、父親がイタリア人。ソビエト革命のあとパリへ。フォリー・ベルジェールをはじめいくつもの劇場で舞台づくりに関わる。ウォール街の金融危機のあと、裕福だった家計が破たんの憂き目にあいその後は厳しい生活を送る羽目になった。ミラノ、メキシコ、ロサンゼルスで神秘主義的な布教活動を行い、自らの宗派を作った。 Up
Borge Fischer ボルジュ・フィッシャー (デンマーク1903-1936 ?) 幼年時代を、家族の移住先だったアメリカのボストンで過ごす。1927年から1935年まで、フォリー・ベルジェールのレビューやその他の劇場の衣裳を担当。彼が最後に描いたとされるデザイン画は、1936年のものと言われる。 Up
Charles Gesmar シャルル・ジェスマール (1900-1928) 早世の芸術家である。28年という短い人生で、フォリー・ベルジェールのほか、マリニー、カジノ・ド・パリ、バタクランなどで、多数の舞台作品の衣裳デザインをする。また、オリンピアでは衣裳デザインのチーフをつとめた。とりわけ、ミスタンゲットの専属デザイナーとして知られ、実の息子同様に彼女の世話をした。Up
Félix de Gray フェリックス・ド・グレイ(フランス1889-  活動期間は1932年頃まで?) 1930年の、カジノ・ド・パリでの仕事がとりわけ重要だが、それ以外にもフォリー・ベルジェールとパリの他の劇場などでも活躍。その傍らで、パリとロンドンの出版社と関わり、雑誌の挿絵を描いた。 Up
Michel Gyarmathy ミシェル・ギャルマティ (ハンガリー1908-1996) 58年間休みなく活躍した息の長さは他の寄せ付けぬ大記録といえよう。1934年から活動を始め、1934年にはフォリー・ベルジェールただ一人のデザイナーに、そして1946年には劇場ディレクターとなった。ジェスマール、ル・セイユーなどと同様、レビュー全体のコンセプトデザインまで担当するアーティストであった。また、舞台効果のためのいろいろな仕組みを考案。彼の着想による舞台機構はたくさんの劇場で使われている。 Up
Edouard Halouze エドゥアール・アルーズ(フランス1895-1958)  衣裳デザインやモードに、キュビスムの発想を持ち込み、1925年のデザインに新しい息吹を与えたことで知られる。1922年から1931年まで多数のミュージック・ホールでの仕事を手掛けるとともに、モード系の雑誌に多数の挿絵を描いた。1960年代、アール・デコの再評価の機運に乗って、再び注目を浴びた。 Up
Joseph Kuhn-Régnier ジョゼフ・クーン=レニエ (フランス1873-1940) 美術学校を出てから、サロン・ドートンヌの会員となり、ユーモア画家として挿絵を描くようになる。子供向けの絵本を手掛けた描いた他、広告業界ではグラフィック・アートでも知られた。1924年、フォリー・ベルジェールのレビュー「狂気のハート」の衣裳担当。ジェニー・カレが師事した人物のひとりでもある。 Up
Jean le Seyeux ジャン・ル・セイユー(フランス1894-1957) 1920年からバタクラン、リップ、コンセール・マイヨル、フォリー・ベルジェールの舞台デザインを始める。1921年から29年まではカジノ・ド・パリでレビューを出掛ける。32年から34年までは、マリニーを活動の中心としつつも、フォリー・ベルジェールでもデザイン画を描いた。戦争の影が見えてくるとすぐさまニューヨークに渡り、ブロードウェイの芸術監督として、アール・キャロル・ハリウッド・シアターやモンテで活躍。1950年代初頭にパリに戻る。ジェスマールやギャマルティと同様に、レビューの刷新に力を注いだ。Up
Alberto Lorenzi アルベルト・ロレンジ (イタリア1880-1964) むしろポスター作家として、サロン・デ・ユモリスト、サロン・ドートンヌ、サロン・デ・アンデパンダンに出品していた人物。フォリー・ベルジェールでも活躍した。著名なモード雑誌にエレガントで洗練された挿絵を描く一方、ユーモア雑誌や通常の図書の挿絵も手掛けた。1930年代からは絵画に専念している。Up
Marco Montedoro マルコ・モンテドーロ(イタリア 1887-1947) 幼少時から神童との呼び声高く、音楽家一家に育ち、10代でパリ出てデッサンと絵画の正式な教育を受ける。一時期パリで働いたのち、1913年にはベルリンのメトロポルで芸術監督になる。第一次大戦中はイタリアに戻り、映画や演劇のポスター制作に従事。1923年にパリに戻り、パラス、アンバサダー、ムーラン・ルージュ、フォリー・ベルジェールでデザイン画を描いている。また、ポーランド、ベルリン、ロンドン、サンクト・ペテルスブルクでも活躍。30年代初頭にニューヨークへ渡り、最初はシューベルトで、そして32年から47年は ヴィンセント・ミノリとの協働で、ラジオ・シティ・ミュージック=ホールの衣裳担当になった。Up
Macha Prochaska マーシャ・プロシャスカ (ロシア パリでの活動期間:1936-1937) 1936年のフォリー・ベルジェールのレビューと、1936年から1937年にかけてのシャトレ―のレビューの衣裳デザインを担当。Up
レヴォルグ (イギリス?活動期間:1936 et 1942) 1936年に、フォリー・ベルジェールのレビューの、続く1937年にロンドンのパラディウムにて、次いで1942年にはカジノ・ド・パリで、それぞれ衣裳デザインを担当した Up
René Ranson ルネ・ランソン (フランス1888-1977) バレエ・リュスの流れをくむ大物デザイナーの一人。1924年から1932年まで、フォリー・ベルジェールに加え、オペラ、シャトレ―、オペラ・コミックなど、名だたる大劇場で、さらにはヨーロッパとアメリカの劇場や、また映画スタジオ(パラマウント、フォックス、パテほか)でも活躍。社交界きっての美食家のサークル、クラブ・デ・サン(百人会)の会員でもあり、メニュー表をデザインする一方、オペラ座などの舞踏会にも顔を出したりなどした。芸術家グループのモンマルトル・デ・アーティストの創始者のひとりでもある。占領時代中、レジスタンスの機関紙のための挿絵を手掛け、自身もレジスタンスに参加。 Up
Paul Seltenhammer ポール・ゼルテンハンマー(オーストリア1903-1973) ウイーン大学で工芸を専攻、地方の劇場でデザイナーとして始動。1928年にパリに移住、1929年から1934年までフォリー・ベルジェールで活動する。戦争勃発の気配を前に、オーストリアに帰国し、ドイツに渡ってさらに、デザイナーとしてのキャリアを積んだ。1950年から60年代にかけて、主として映画とテレビのための衣装を手がけている。Up
Alec Shanks アルク・シャンクス(イギリス1904-1987) バーミンガムのロイヤル・シアターに始まり、次いでパリでは1926年にムーラン・ルージュでデザインを手がける。まずエルテと、続いてマックス・ウェルディと協働の上、フォリー・ベルジェールで衣裳を担当(1929年から1932年)。劇場の内装は彼のデザインによるもので、この仕事が彼の地位をゆるぎないものとした。1930年代、イギリスに戻り、ロンドンの複数の劇場で制作責任者として活躍する傍ら、ニューヨークとパリでも時折舞台制作にかかわった。1930年代末、衣裳デザインのアトリエを立ち上げ、そこでエルテに仕事を依頼することもあった。仕事を予算内に収められないことでも知られた。 Up
Ernst Stern エルンスト・スターン (ドイツ1876-1954) ルーマニア出身。1900年から1920年にかけてベルリンの主要な大劇場で、舞台装置を担当した。 Up
Dolly Tree ドリー・トゥリー(イギリス1899-1962) 母親は映画女優。1920年代に、ロンドン、マドリッド、ローマ、ブリュッセルなどの劇場でレビューの衣裳を制作し、一躍有名になる。1919年から1929年の間、フォリー・ベルジェール、コンセール・マイヨル、アンバサダーでなどパリの劇場でデザイン画を描く。1930年代にはイギリス映画に、さらにのちにはハリウッドの映画界で活躍。ジャン・ハーロウ、ジュディ・ガートランド、ラナ・ターナーほか、多数の著名アーティストの舞台制作に参加するなど、世界的な名声を博した人物である。 Up
Hugh Willoughby ユーグ・ウィルグビー(イギリス1891-1973) 第一次世界大戦中、最前線に送られ2年にわたる抑留生活を経験。復員後、ロンドンのパラスでデザインを手がける。1920年から1925年までパリで、マリニー、カジノ・ド・パリ、フォリー・ベルジェールなどのレビューの衣裳を手がける一方、イギリスの劇場でも時折仕事をした。1930年代の終盤には、アメリカに移住。ニューヨークで舞台衣裳の個人アトリエを創立した。Up
Olga Wivdenko オルガ・ウィヴデンコ(ウクライナ1892- 1972 ?) 象徴主義画家で、イコン画家。 舞台装置家兼作家。生まれ故郷のキエフで就学、パリのアカデミー・ド・ラ・グランド・シュミエールで学ぶ。結核に冒されウクライナに帰国、1919年に再びパリに戻り、とりわけコメディー・フランセーズの舞台装置家として活躍。サロン・デ・ザンデパンダン、サロン・ドートンヌ、サロン・アーティスト・デコラトゥール、1925年の芸術装飾博覧会、1937年の万国博覧会など、有名なサロンや展覧会にはすべて出品を果たしている。1920年代には、考古学調査団にイコン画家として参加、ブルガリアとエジプトに赴く。1953年、スペインに移り住み、マドリッドとバルセロナで十数回にわたり展示を開催。「悲劇の女たち」と題する作品集では、テクストと挿絵の両方を手がけた。また、雑誌「ルネサンス」に寄稿したり、「愛と七つの死についての本」と題する随想録を発表したりなどしている。 Up
Freddy Wittop フレディ・ウィトップ (オランダ1911-2001) ブリュッセルのオペラ座で、13歳から衣裳デザイナーの修行を積む。ベルギーの複数の劇場で働いたのち、1930年にパリへ。1931年から1936年までフォリー・ベルジェールでデザイン画を描き、ロンドンとニューヨークの複数の劇場でも活躍。1940年からニューヨークに定住し、1942年にアメリカ国籍を取得、兵籍に入る。プロのダンサーとしての8年間を経て、1958年からはデザイナー一本に。ブロードウェイの主要デザイナーの一人として、「ホリデー・オン・アイス」や80近いミュージカルの衣裳を担当。彼の手がけたデザイン画は50000点にも及ぶと言われる。映画「ハロー・ドリー」で複数部門にノミネートされた。 Up
José de Zamora ジョゼ・ド・ザモラ (スペイン1890-1971) ポール・ポワレのもと、デザインを多数手がける。この時期のポワレのものとされる作品は、実はザモラのものであることが少なくない。1920年代に入り才能が一気に開花、カジノ・ド・パリ(1920年~21年)、バタルカン、コンセール・マイヨル(1922年~27年)、パラス(1923年~28年)、ムーラン・ルージュ(1924年~1927年)、フォリー・ベルジェール(1926年~1929年)などで仕事をする。1930年代、スペインでの内乱時には祖国へ戻った。1940年から再びカジノ・ド・パリに返り咲き、1961年まで活躍。また、1947年から57年まではモンドール劇場にも関わった。1960年にスペインに帰国、1971年に自殺。折しも、自作の展覧会の開催準備が進められていた矢先だった。 Up
ZIG ジグ (フランス 190 ?-1936) ルイ・ゴーダンに生まれる。若くして芸術家として活動を始める。1925年から36年までカジノ・ド・パリで、1927年から36年まで、フォリー・ベルジェールで、特にミスタンゲットとジョゼフィン・ベーカーのポスター制作を行う。シャルル・ジェスマールの死後、ミスタンゲットの専属デザイナーとなる。 Up
Alexandre Zinoview アレクサンドル・ジノヴィエヴ (ロシア 1889-1977), 一年に2,3度は出し物を新しくせねばならないというミュージック・ホールの回転スピードをいち早く理解、1920年代から活動を始める。バタクラン(1919年~1923年)、フォリー・ベルジェール(1920年~1923年)、シガール(1922年~1924年)、パラス(1923年~1925年)などで活躍。1930年代以降は、ピカソやディエゴ・リヴェラの影響から、シンボリックな記号と濃い青を多用した絵を描くようになる。1950年代に南仏に移住してからは、アルプス山脈の風景画を描いた。 Up
コレクション・ピオレに含まれているそのほかの画家:

Adrian | Bartoli | Belog | Bérard | Cando | Hadyre | Herbetin | Kainer | Korovine | Hermance Laplace | Luska | Suzanne Mc Clay | Serge Magnin | Mariane Malher | Melallingo | Robert Néron | Opisso | Nina Oulian | Palo-G.Panis | Ada B.Peacock | Peras | Pottier | Renée | Souée | Schouschaeff | Valentine Sonone | Steck | Stern | Valmier | Gérard Vicaire | Viginier | Ted Weidhaas | Cédric Wytz | Yo | Alexei Zaibrow | Zinkeiser

Wivdenko


©2019 Collection Piollet All rights reserved
English Français Japanese