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両大戦間期(1920~1940)とは


ジョゼフィン・ベーカーが「私には二人の恋人がいる。それは祖国とパリだ」と歌ったように、両大戦間期、人々はパリを愛してやみませんでした。いくつもの異なった顔をもち、異邦人たちを魅了したパリは、狂乱の時代を照らす光であり、モード、アート、舞台芸術において、世界中の注目の的だったのです。フォリー・ベルジェールで1930年4月にかかったレビュー「狂乱の一撃(Un coup de folie)」の最終場のために、ジグが描いたパリの地図はまさしく、当時のパリそのものです。 (写真)
今日でこそ、ここに載っている当時のランドマークを記憶する人はほとんどいないでしょう。しかしどれもかつては、誰もが知る場所でした。それなしには、あるいはそこを使うことなしには、当時の人々の日常はなかったのです
たとえば、次のような場所が挙げられます。

Le vélodrome d'hiver
1959年、冬季競輪場14(ヴェロドローム・ディヴェール 略称:ヴェル・ディヴ ) とは、パリのエッフェル塔から. さほど遠くないところにあった冬季競輪場これは、1903年に競輪場になり1909年に解体された大建造物ギラリ―・デ・マシーンに代わる施設で、19世紀の終わり頃、パリのスポーツ振興政策の一環としてつくられました。ヴェロドローム・ディヴェールは、自転車競技の人気の高まりで、人気スポットとなります。ここで行われた自転車の6日間レースは両大戦間期を通じて大人気を博しました。利用者の社会階層は本当にまちまちでした。スポーツという共通項のおかげで、いろいろな人々が垣根を越えてともに集うことのできる場所として、le ヴェロドローム・ディヴェールは顕著な例と言えるでしょう。しかし悲運なことに、1942年7月の一斉検挙の舞台となったのもここでした。数日間「ユダヤ人小屋」と化したこの場所で、多くの人々が命を落とします。かろうじて生きながらえた人々も、ナチスの強制収容所へ送られました。

 今日私たちの目からみれば、1930年代のパリはもはや過去のものです。けれどもそのパリがいかに楽しい場所だったことか!
当時のパリは経済の中心であり、カルチャーありスポーツありと、そこにないものはありませんでした。人々は、予約なしで劇場に飛び込んだり、夜は踊りに行ったり、プロでもないのに人に歌を聞かせたり、縁日で羽目を外したり、スポーツを楽しんだり、カフェのテラスで芸術家たちと出会えたり、夜更けの帰り道に商品のばらしでごった返す市場をひやかしたりしました。仕事も簡単に見つかった時代でした。
みな親切でしたし、気楽でのん気で、人生を謳歌していました。終わったばかりの戦争のことなど忘れていましたし、次の戦争の足音もまだ聞こえていなかった頃でした。


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